水族館プロデューサー 中村 元水族館プロデューサー 中村 元
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言葉から始まる水族館計画

掲載:光村図書出版 中学校国語教育相談室89号 エッセイ「言葉と向き合う」(2019年)

『天空のオアシス』『生きている水塊』『北の大地の水族館』『ニッポンの水族館』『超水族館/海より広い海がある』。
 これらは今まで私が関わった5つの水族館で、リニューアルや新設オープン時のポスターおよびCMに使ったキャッチコピーだ。ただしコピーライターが完成した水族館を見てつくったのではなく、いずれも展示計画を始める前の基本構想時に、私が水族館プロデューサーとして考えた。
 水族館のリニューアルや新設にあたり、その水族館をどのような理念で計画し実現するかを関係者に宣言するのが常なのだが、それを最も短くまとめたスローガンとしての言葉が冒頭のコピーだった。
 展示理念を正しく実現できたとき、宣伝においてその水族館を最も的確な言葉で表そうとしたら、スローガンとキャッチコピーが同じ言葉になるのが当然。…いや、そうだろうか?そんな都合のいい話しがあるわけはない。
 実を言えば私は最初から、オープン時のキャッチコピーとして使うことを想定して、展示理念スローガンをつくっている。どのような言葉で表現された水族館ならば、多くの人たちから興味を持たれ、多くの人たちの来館を促すことができるだろうか?との命題の下、最も有効そうな言葉をひねり出す。
 その言葉を中心に展示理念を展開し、基本計画をつくり、具体的な展示内容や設計にまで繋げていく。つまり私の水族館計画は常に「はじめに言葉ありき」なのだ。
 水族館プロデューサーを名乗りながら、私は魚や生物好きでもなければ、生物学や海洋学を修めてきたわけでもない。学芸員の資格を持っているわけでもないし、エンタテインメント畑の出身でもない。
 さすがにそれぞれにまったく興味がないということもないが、せいぜいちょっと好奇心の強い大衆の一人というところだ。にも関わらず、唯一の水族館プロデューサーとして仕事を依頼いただける程度には成功実績を重ねている。
 その秘密が「はじめに言葉ありき」のやり方だ。もちろん、言葉は神と共に…というような聖書とは関係ない。いわゆる「言霊」的なアレでもない。ただ単に、言葉は何かを伝える道具として、最も普遍的で扱いやすいものである、というだけのことだ。
 だから私のキャッチコピーは、天からの啓示のごとく閃くようなことはない。水族館の立地や特徴や時には弱点を並べてはひっくり返し、その時代のお客さんの欲求を大衆性の側から深く探り、ああでもないこうでもないとこねくり回しているうちにようやく生み出される。
 そうやって生み出された言葉だから、水族館の開発理念の最も重要な核心となり、最終的にオープン時に大衆に伝えるためのキャッチコピーにもなるのだろうと自負している。
 言葉とは、前述したように「最も普遍的で扱いやすい道具」であるがため、ふだんはぞんざいに扱われることが多い。しかし、真剣に向き合って扱えば、言葉は力強い『象徴』となり、素早く拡散する『印象』となり、ときにはその両方の力を持つ。
 いったい水族館とは、生物を展示するところであり、展示とは「見せて伝える」ことだ。辞書によれば、展示とは「見せること」としか書かれていないが、伝えるという目的がなければ見せる意味もない。だから水族館が、見せて「伝える」施設であることを私はとても大切にしているし、見てもらえない展示、見られても何も伝わらない展示は、あってはならない展示であるという信念を持っている。
 なぜなら、生物たちは展示されるという目的のためだけに、捕らえられ閉じ込められているのだから。見せて伝える目的が果たせないのなら、彼らを解放してあげるべきなのだ。
 私が「はじめに言葉ありき」にこだわるのは、その考えを実践するためだ。人々に何かを確実に伝えられる水族館を開発するために、開発スタッフの拠り所となる理念の象徴となる言葉を提示する。また、そうやって完成した水族館の魅力を、できる限り多くの人々に届けるために印象の強い言葉を使うのだ。

 実のところ、私が言葉について真剣に向き合うのはほとんどこの時だけだ。ふだんの私の言動は、いかにもいい加減で適当で、時には誤用もあったりしてまるでデタラメだ。ところが、ふだんはその方が真意が伝わりやすく、より深く意味が伝わったりするのだから面白い。
 おそらく、ヒトが人らしくあるための基本的な言葉とは、このふだん使いのいい加減な言葉の方なのだろう。二人であるいは家族的な集団で、互いに伝え理解し合うのに最適な言葉、本来の人社会に必要だった言葉。
 その言葉が発される時には、その空間で共有するイメージや感情がある。発された言葉はその場にいる人々の記憶や心にだけとどまる。例え文字に書き残されても、文字には感情や時空間までもが現れ、人の手で回覧されたり書き写されることで、伝える人の感情が上乗せされ、伝えられる度に変化がもたらせる。
 その言葉とは、マス媒体で伝達され、言葉だけが単独で拡散されていく今の時代の社会的言葉とは性質のまったく違う、穏やかで大らかなイメージのやり取りのことに違いない。