ピンクイルカとコーヒー
バブル景気華やかなりし頃、在職していた水族館の建て替え計画を任されていた私は、新展示開発の一環で、ピンクイルカとも呼ばれるアマゾンカワイルカを展示しようとブラジルに渡った。当時のサンパウロには水族館があり、件のピンクイルカが飼育展示されていた。サンパウロに住む知人がその水族館長に繋いでくれたのだが、「協力を惜しまない、会って話そう」と言っているとのこと。
よしっとばかりに渡伯の計画を立て、さあ明日は成田空港だという時、サンパウロから電話があった。「館長はコーヒーが大好物なので、日本のインスタントコーヒーをお土産に買ってきてくれ」。
なんだって? ブラジルはコーヒーの大産地ではなかったか。お土産と言うならブラジルからだろう。しかもインスタントって? 聞き直したが、彼は「とにかくインスタントコーヒーだ。できればボクの分も頼む」とまで言う。なんとも妙な話だが準備した。
サンパウロ水族館の館長は、気の良いオヤジで、お土産のインスタントコーヒーを心から喜んでくれた。イルカを見せてくれる前にまず、そのコーヒーを淹れて飲む儀式から始まったのだが、一口飲むごとに本当に嬉しそうに目をグルグルさせてみせた。
その頃の私は紅茶派だった。若い頃はコーヒー派、高校時代に初めて喫茶店のコーヒーの味を知って浮かれ、一人暮らしの大学生になってからミルやドリッパーを揃え、最初の頃は悦に入っていたが、そのうちたまらなく面倒になってきた。何より豆は高いし喫茶店の味にならない。その点、紅茶は茶葉で淹れてもそれほど面倒でなく、値段のわりには喫茶店とほぼ同じ香りを錯覚できる。
筒井康隆先生のSF小説『七瀬ふたたび』の主人公、七瀬の超能力はコーヒーを飲むと研ぎ澄まされる。実は若い頃コーヒー派だったのは、七瀬の超能力に憧れてだった。それでもやはり面倒さには勝てなかった。
ピンクイルカの輸出入準備と館長を喜ばせるため、インスタントコーヒーをブラジルに運ぶ3度目の訪問時。サンパウロの知人から、日本の要人をサントスのコーヒー豆工場に案内するので一緒に来ないかと誘われた。
コーヒー豆工場と言っても、コーヒーの実を乾燥させたり脱穀したり選別したりが作業工程のようだった。ザルの目の大きさが異なる選別のための枡のようなフルイを見せてくれた。5種類だっただろうか、最も目の大きいフルイにかけて残ったコーヒー豆は特等品、2番目のフルイで残ったのが1等品、次いで2等品、3等品、4等品、最小の目も通り抜けたのは5等品となるのだとか。
コーヒー豆は重要な輸出品なので、ブラジルで消費されるのは良くて4等品かほとんどが5等品だと言う。5等品は矮小で形も歪だ。半分に欠けた豆や、枝や葉の欠片さえ混じっていた。当時のブラジル国内のコーヒーが不評だった理由がこれだ。
では上位の豆はどこに輸出されるのか? なんと特等品は日本が独占。さらに1等品も多くが日本、一部が英国なのだそうだ。そしてまさか!の驚きは、1等品の使い道だった。英国で最高級とされる1等品が、日本ではインスタントコーヒーや缶コーヒーに加工されるのだという。ホンマかいな!
館長や知人をはじめ多くのブラジルの人たちが日本のインスタントコーヒーを喜ぶ理由が、この工場に来てようやく分かった。
当時はバブル景気も最高潮、日本が世界を買ってしまうとまで揶揄された、ほんの一例だったのだろう。それは、珍しい動物を世界の生息地から集めてきている、自らの業界にも重なるようで、いたたまれない気持ちになった。
その後、ピンクイルカ計画は、館長が急逝され水族館も廃業されたため、入手を諦めざるを得なくなった。しかし、このコーヒー豆の世界を覗いたおかげで、計画中止をなんとか納得することができた。そしてその後の私の水族館開発は、世界中から珍しい生物を連れてくるよりも、もっと魅力ある水塊展示を開発する方向へと舵を切った。
ところが不本意にも、私の舌の方はあれから後、コーヒー派へと再び舵を切っていた。今では喫茶店仕様の電動ミルまで手に入れて、ドリップの泡立ちに毎日癒やされている。特等と1等を買い占める日本を恥じていたあの日のサントスの私はどこへ行った。どうやら私の心の底には、そんなにいい豆が日本にあるなら、その美味しいコーヒーを味わなくちゃと、我が身をそそのかす腹の虫がいるらしい。
そんないじましい腹の虫のせいか、コーヒーを味わう私に七瀬の超能力が芽生える気配は一向にない。