2025秋(vol.49)~ぼくらはギリギリ生きている!〜
■ 老老介護の幸せ ~
トモ子さんは満州(現・中国東北部)の生まれ。生後10ヶ月の時に栄養失調になりながら母親に抱かれ日本に引き揚げています。(父親はトモ子さんが生まれる前に出征してシベリア抑留中に病死)
松島:
「母が乳飲み子だった私を命懸けで日本に連れ帰ってくれたんです。私は生まれてすぐに避難生活をしていたんですね。ソ連兵が不可侵条約を破って侵攻してきて、日本人女性が隠れているのがバレたら襲われてしまうので窓ガラスには黒い紙を貼って身を潜めていました。だから私は生まれてから10ヶ月間は全く太陽の光を浴びずに育った赤ん坊だったんです。」
食べるものも少なく恐怖と空腹に耐え忍ぶ日々。
松島:
「そういう生活の中で日本に引き揚げてきたから、テレビのニュースでウクライナやガザの子どもたちを見ると『あれは昔の私だ!』と思って涙が止まらなくなるの。」
着の身着のまま引き揚げ船に乗り込んだものの、船内では嗜眠性脳炎が流行し、小さな子どもたちが次々と亡くなっては海へと水葬されていったそうです。船には沢山の子どもたちが乗っていたはずが、生きて日本に帰れたのはトモ子さんともう一人の男の子だけという壮絶さ。トモ子さんは生まれた時から生きるか死ぬかのギリギリの人生を歩んできたことが分かります。

中村:
「トモ子さんはいつもお母様といつもご一緒だなぁと思っていたのですが、そういった経緯があったからなんだなと納得しました。そのお母様が9年前に認知症を発症されて…。」
そして、突然始まった母親の介護生活。トモ子さんは自宅介護の道を選びました。
松島:
「自宅介護というのは本当に大変です。だけど私は逃げられなかった。命懸けで私を守りながら引き揚げてくれて、仕事もプライベートも母には本当にお世話になってなってなりっぱなしだったから、母を施設に預けて自分が楽をしちゃいけないと思いました。恥ずかしながら私は家事が大嫌いで何もやってこなかった。お湯すら自分で沸かせなかったの。」
家事未経験となれば当然のように周囲の人たちは施設へ預けることを強く勧めたそうです。
松島:
「口を揃えて、その方が母にとっても幸せだって言うのね。」
それでもトモ子さんは頑なに自宅介護を続け、看取るまでの約6年間、しっかりとやり遂げました。途中、介護は壮絶を極め、親子心中も考えたこともあったそうです。まさに共倒れ寸前。トモ子さん自身もパニック障害を起こすなど本当にギリギリ生きている状況だったと振り返ります。
松島:
「もうできない!お願いだからもう………と良くないことを考えてしまったことも一度や二度じゃなかったです。でもね、いざ母が亡くなってみたら本当に寂しい。母が亡くなってからのこの4年間は、ああもすれば良かった、こうもすれば良かったと、そんなことばかり考えてしまいます。悔やんでも悔やみきれない。人間ってそういうものよ。」
誤解のないように書き添えておきますが、100人いれば100の介護の在り方があって当然で、そもそも正解なんてありません。施設を利用するしないも人それぞれです。ただトモ子さんは母親への恩義から自宅介護しか考えられず、その道を選び最後まで貫き通しました。そして「(自宅介護を)やって良かった!」と心から思ったのだそうです。
中村:
「僕はトモ子さんがお母様のお葬式の時にニコニコしながら挨拶をされていたのが印象に残っていて、今おっしゃっていた『やって良かった』という気持ちがとても伝わってきてジーンとしました。」
トモ子さんは約6年の亘る自宅介護を綴った『老老介護の幸せ~母と娘の最後の旅路~(飛鳥新社)』という本を出されています。自宅で母親の介護を行う傍らで綴った手記だそうです。

中村:
「『老々介護の幸せ』、素敵なタイトルですよね。『幸せ』と付けたところが素晴らしいです。」
松島:
「本のタイトルに『老老介護』という言葉は絶対に入れたかった。その上で、私は『老老介護の地獄』とか『老老介護の残酷』とか、そんなタイトルを提案したんだけれど、出版社の編集の方に、それじゃ売れませんと却下されて…。それで編集長が『老老介護の幸せ』というタイトルを付けてくれたんだけれど、私もその当時は介護本当にギリギリだったから、私は幸せなんかじゃありませんと言って、今どれだけ苦しくて辛いかを編集長に必死に訴えたと覚えがあります。だけど、今、振り返ってみれば……、とても幸せでした。」
客席:(大拍手)
そして、本の執筆が苦しい時に心の逃げ場にもなったとのこと。
松島:
「みなさんも苦しいことや辛いことがあった時は、何でもいいからノートに書き散らすと良いと思います。心の逃げ場ができて気持ちが楽になると思いますよ。」

「幸せでした」と言える強さ。
中村:
「実は僕もね、トモ子さんが家事も何もできないということを良く知っていたので、自宅介護なんて絶対に無理だと思っていた一人です。でもトモ子さんは施設に預けずに自宅介護を勤め上げて、その間に本も書いて、それだけではなくコンサートも続けていたからね。本当に凄いなと思いました。人間『やろう!』と思ったら何でもできるんだなと感動しました。」
松島:
「そうですよ。今日お越しいただいている皆様はまだお若そうですし、ぜひ頑張ってください。 絶対にできないことなんて世の中にないと思います!」
中村:
「それです! 今日皆さんに持って帰ってもらいたかったのはそこなんですよ! どんなに苦しい時でもヤバイ時でも、必ず幸せもありますし、満足感もあるかと思います。頑張ってください、皆さん!」
中村さんとトモ子さんから客席にエールが送られて第二部が終了。笑いあり、感動ありの特別な回にとなりました。
まとめ
通算49回目 ”ラスト2” の超水族館ナイトは、人が生きる上でのヒントやメッセージがギュッと詰まった非常に濃い内容となりました。お客さんにとっても、水族館(動物園)にとっても、未来に繋がる大切なお話が沢山あったと思います。
第二部では10年ぶりに松島トモ子さんが登壇し、のっけから ”黒” トモ子さんが降臨! そのパワーとオーラに圧倒された中村さんとテリーさんがしばし言葉を失っていると「寝てるの!?アナタたち仕事しなさいよ!」とバッサリ斬られるなど客席は抱腹絶倒! 超水族館ナイト史上最高とも言える盛り上がりとなりました。そして、素顔の松島トモ子さんはとてもチャーミングで、動物への愛情であったり、女優としてのプロ意識や立ち振る舞い、家事未経験から自宅介護をやり遂げる意志の強さと行動力など、実は超水族館ナイトのエッセンスを全てを兼ね備えたスーパーレディが松島トモ子さんなのかなと思った次第です。ひたすら心を揺さぶられた2時間半、中村さんと松島トモ子さんに人生のヒントや勇気を沢山もらった気がします。
(文&写真:須釜 浩介)

伝説の1ページが刻まれた。
(打ち上げの様子やお知らせなど、もう少しだけレポートが続きます)